2015年5月5日火曜日

シュルレアリスムとモラトリアムの話。


国立新美術館で開催中のマグリット展に行って来ました。シュルレアリスムを知ったのは高校生の頃。(10年も経つのか。)英語の教科書にマグリットの『昼と夜』が載っていました。それからダリの画集を買って暇があればじーっと絵を読んでいました。

描かれた物が一般的に何を象徴しているのか。作者自身が意図して込めた意味合い、作者の生い立ちから想像出来る無意識に込めてしまっている意味合い。そして、それが画面のどこに置かれ(ポジション)、周りに置かれた他の物との関係でどんな新しい意味が発生するのか。画面の中で視線を動かす度に絵の意味が絶えず変化していって、全体のニュアンスを感じるしかない感じ。

こういった、「物を観る視線」をシュルレアリスムから学びました。17歳、モラトリアム絶頂期であった僕の気分にとてもしっくりときました。これから対峙する社会で、今いる学校で、自分のポジションがどんな意味を発生させているのか。そんな事を正確に頭で理解できるんじゃないか、という希望を見ていました。この視線は大学でさらに強化されますが、モラトリアムは今でも続いています。

2015年3月1日日曜日

“きゃ”の話




早起きしなきゃ

シャツにアイロンをかけなきゃ

お化粧しなきゃ

歯を磨かなきゃ

会社へ行かなきゃ

そして、山積みの問題とだめな自分に向き合わなきゃ

人としゃべらなきゃ

思っている事を上手に伝えなきゃ

友だちを大切にしなきゃ

大切じゃない友だちなんていないけど

メールを返さなきゃ

わた埃が遊んでる、汚れた床を掃除しなきゃ

ゴミを捨てなきゃ

ごはんは作って食べなきゃ

楽しい休日を過ごさなきゃ

じゃなくて、誰かに楽しそうと思われる休日を過ごさなきゃ

新聞を読まなきゃ

本を読まなきゃ

頭がよくならなきゃ

いい女にならなきゃ

いい女がどんな女かわからないけど

結婚しなきゃ

恋をしなきゃ

素敵な人と出会わなきゃ

頑張らなきゃ

いろんな事、全部

努力しなきゃ

嫌な事は忘れなきゃ

苦しくても我慢しなきゃ

明日の事を考えなきゃ

それから、もっと先の将来の自分の事、家族の事、考えなきゃ

いつも笑顔でいなきゃ

人生を楽しまなきゃ

かわいい靴下を履かなきゃ


もっと、もっと、いっぱい、

きゃ、きゃ、きゃ、、、



消化できないままに、またどんどん増えて、両手いっぱいに抱え込んで歩いていたら、
こないだ、
つまずいた拍子に全部落としてきてしまった。

両手と一緒に頭の中まで空っぽになって、ふわふわ体が浮き始めた。
本当に拾わなければならないのは一体・・・。

転がり落ちた物たちの中に見え隠れする見栄っ張りで怠惰で臆病な精神に笑ってしまう。

空っぽになった手にフライパンを握り、今朝はソーセージを焼いている。
今はもう、それで手いっぱい。
ひとつだって拾いになどゆけません。

焼けるのを待ちながら晴れた空を眺めると、通りの向こうに梅の花が咲いている。
白い、小さな花がこっそりと、だけど当然に。

知らない間に、春ですね。
空っぽの体の中を、まだ冷たい春の風が通り抜けていきました。

2015年2月5日木曜日

認められたさの話。



ナルシシズムについて。私は何者かになりたいと思っています。その何者かというのは漠然とした、稚拙な、成功者のイメージです。私は残念ながら、大衆に評価されたいという気持ちが隠しきれません。物事の分別がつく年齢ですから、この感情がどれほどくだらなく、恥ずかしいものなのか、わかっています。ですから、この気持ちを沈める為にたくさんの努力をしてきました。しかしこの気持ちを抑えつければ抑え付けるほど、自分自身が喪失してしまうような気分になり。実際に何かを喪失しているような気がします。(毎晩、明日こそ誰かが私を殺してくれるように、天に祈ってから布団に潜り込みます。)私の生きる目的はほぼ全て、この認められたさにあります。これからは恥ずことなく、恥ずかしむべきナルシシズムの中に没頭したい、この中で溺れ死にたい。そんなふうに思います。

2015年1月21日水曜日

あたたかいご飯の話。




ただいま。
おかえり。

玄関をあけると、香ばしいいい香り。お腹がぐーっとなっている。
今日のご飯はなんだろう。

いただきます。
召し上がれ。

ごちそうさまでした。今日もおいしかったな。


なにかをすると、返ってくる安心感。なにかを与えたくなる安堵感。

些細なことも、1人より2人、2人より3人。
ひととひととがつながることで、幸せは何乗にも増えていく。
困難だって増えるかもしれない。それでもいつだって、幸せは勝るのだ。

穏やかに、あたたかく、誰かと共に、すごす幸せ。
言葉大事に、笑顔絶やさず。
日常を丁寧にすごすことで、いろんなことが、いい方向へとすすむ気がする。

今日のご飯はなんだろう。
お腹がぐーっとなっている。

2014年12月8日月曜日

朝と鱗の話。

子どもの頃、いわゆる寝付きの悪い子だった。
おまけに暗いところには何かが居ると信じていたから、言うまでもなく夜が嫌いだった。
長い、長い夜。疲れて眠る大人たちに取り残されて、暇を持て余していた。
小学生だったある夜、あまりに眠れず退屈した私は、眠っている母の腕にシールを貼って遊んだ。小さな星形のキラキラ光る青いシールだった。起こさないようにそぉっと、そぉっと貼る、そのスリルがたまらなかった。
眠りにつく頃、母の腕には青い星がいくつも輝いていた。

次の日、朝ごはんを食べる私に、『腕にシール貼ったでしょ』と確認しつつ、『鱗が生えてきたのかと思ってびっくりした。』と半分真顔で笑う母。
朝目が覚めて、自分の体から『鱗が生えてきたのでは』と驚いた人がこの世に何人居るだろう。
寝付きの悪い娘を生んだおかげで、母はものすごく貴重な経験をした。


鱗の朝・・・
今思えばなんて劇的な朝だったんだろう。
母の中に生まれて、一瞬にして消えた、あり得ない未来。
鱗が生えるという事は、人間でなくなる。一夜にして、別の何かになる。
人生が変わってしまったかもしれなかった、朝。

今は夜より朝が憂鬱だけれど、もしかしたら明日は人間ではないのかと思い、
今夜もとりあえず、朝に向かって目をつむる。
人間でなくなる日は来ないにしても、頭の奥の、奥の、奥の方にある、あり得ない未来。
そんな未来への希望が、不安な朝を超え、暗く長い夜をくぐり抜け、私をここまでつれて来たように思う。


ともあれ、『鱗が生えた』と思ったその瞬間、母の頭に浮かんだ未来は美しい人魚だったのか、恐ろしい魚人だったのか。機会があれば確認してみたい。

2014年11月6日木曜日

なりたい自分の話。


 昔々のなりたい自分は、遠い遠い存在で。お花屋さんになりたい、とか、スチュワーデスになりたい、とかとか、見えない可能性を沢山背負っていたけれど。最近のなりたい自分は、近い近い存在で。目の前の仕事をそつなくこなせるようになりたい、とか、自分のペースで生活できるようになりたい、とかとか、見えない可能性を捨て去って、ゴールも見えていないのに、現実路線をひた走る。

 いつからだろう、なりたい自分を、見て見ぬ振りするようになったのは。
今だって昔だって、夢は夢であるわけで。夢みる距離感は、いつだって一緒で良いはずなのに。。。

 年を取れば取るほどに、夢への距離をなんとなく図れるようになった気がして、自然と夢を夢だと諦めたりもしたけれど、距離を図れるようになったのならば、縮める努力さえすれば、昔々の夢よりも、もっと近づける可能性を背負っているはずなのだ。要は何が言いたいかというと、

もっと頑張れ負けるな自分!!

それだけです。

 ただ、がむしゃらに走ればいい時期は、もう終わったんだなと、最近ひしひしと感じています。次のステップに、もう進んで良い時期が来ていることは分かっていても、自分に甘くて進めずにいます。
夢へのスイッチ、早く見つけないと、いけませんね。
まずは自分で、それからみんなで。そんな感じで探していきたいと思っています。

2014年10月26日日曜日

東京の色の話。

あるラジオのコーナーで、海外のミュージシャンにインタビューするコーナーがあって。全員に毎回、ある同じ質問をします。
「あなたはトーキョーを色で表現すると何色だと思いますか?」
仕事場で毎日流れるラジオ。毎日聞くこの質問。毎日答えは、
「トーキョー?ブルーだね。」
僕が見ている東京と、彼らが見たトーキョー。僕はブルーになんて見えたことないから、毎日とても羨ましい気持ちでいっぱいの、15時頃。